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: 電子のスピン : 二状態系の運動 : 二状態系の運動   目次   索引

水素分子イオン

水素分子イオン(hydrogen molcule ion)、H$_2$ は、図4.1のように、 陽子が二個空間中に $a$ だけ離れて存在し、そこに電子が一個いる 系である。 電子は、クーロン力により、陽子に強く引かれるから、(a) のように左の陽子に 拘束されている状態か、(b) のように右の陽子に拘束されている状態の、 いずれかが安定であると思われる。 厳密にいうと、後に第6章で述べるように、電子は、 不確定性原理のため、ボーアの原子半径(Bohr atomic radius)程度、ぼけて存在するので、 図には、電子の位置をわざとぼかして記入してある。

図: 水素分子イオンの二つの状態、(a) 状態 $\left\vert左\right\rangle $、(b) 状態 $\left\vert右\right\rangle $
\includegraphics{fig/bi.H2-ion.eps}

(a) のような状態を $\left\vert左\right\rangle $、(b) のような状態を $\left\vert右\right\rangle $ と 表すこととすると、 $\left\vert左\right\rangle $ 状態のエネルギーと、 $\left\vert右\right\rangle $ 状態の エネルギーは、対称性から、互いに等しくなると推定される。 このエネルギーを、$E_0$ とすれば、第3章のまとめで 示したように、ハミルトニアンの対角項は、$E_0$ となることがわかる。 こうして、次の運動方程式が得られる。


\begin{displaymath}%e1
i\hbar\frac d{dt}\left(\matrix{\left\langle\left.左\righ...
...\left\langle\left.右\right\vert\psi(t)\right\rangle }\right)
\end{displaymath} (4.1)

陽子と陽子の間隔 $a$ が、十分大きいときには、この式でよいが、 間隔がつまってくると、左にいた電子が右に移動したり、逆に右から左へ 移動する可能性が、僅かであるが、生じてくる。 これは後に示すトンネル効果によるものであるが、本章では直観的に、$a$ が 短くなれば、遷移(transition)の可能性が増すとだけ、理解してほしい。 さて、この遷移の程度、$H_{左右}$ を、$A$ で表すと、 ハミルトニアンは、エルミートオペレータであるから、$H_{右左}$$A^*$ となる。 従って、$a$ の短い場合は、式4.1の代わりに、次式が 運動方程式となる。


\begin{displaymath}%e2
i\hbar\frac d{dt} \left(\matrix{\left\langle\left.左\rig...
...\left\langle\left.右\right\vert\psi(t)\right\rangle }\right)
\end{displaymath} (4.2)

遷移の程度を表す $A$$A^*$ は、一般には、複素数であるが、実数として 扱っても、結論は変わらないので、計算の簡単化のため、実数としておこう。 また、$E_0$ は、言うまでもなく、実数である。




問題4..1 ここに示したハミルトニアンがエルミート行列であることを確かめよ。 また運動方程式4.2を解き、任意の初期条件からの一般解を示せ。

ヒント 3章のまとめ

答え

まずハミルトニアンの固有値問題を解くと $E=E_0+A$     ($=E_h$) と $E=E_0-A$     ($=E_l$) を固有値とする。 固有ベクトルはそれぞれ次式で与えらえる。


\begin{displaymath}
\left(\matrix{\left\langle\left.左\right\vert E_h\right\ran...
...t\rangle }\right)=\left(\matrix{1/\sqrt2 \cr -1/\sqrt2}\right)
\end{displaymath}

したがって、一般解は、次のようになる。


\begin{displaymath}%e3
\begin{array}{l}
\left(\matrix{\left\langle\left.左\rig...
...\left.右\right\vert\psi(0)\right\rangle }\right)
\end{array}
\end{displaymath} (4.3)


問題4..2 前問で時間経過オペレータ $\widehat{U}(t,0)$ を求めよ。 またそのユニタリー性を確かめよ。

ヒント 3章のまとめ




$t=0$ で電子が左にいることが確定していたとしよう。 $\left\langle\left.左\right\vert\psi(0)\right\rangle $ の絶対値は 1 としよう。 当然 $\left\langle\left.右\right\vert\psi(0)\right\rangle =0$ である。 すると式4.3より次式のようになる。


\begin{displaymath}
\left\langle\left.左\right\vert\psi(t)\right\rangle =\exp\f...
...(t)\right\rangle =-i\exp\frac{-iE_0t}\hbar
\sin\frac{At}\hbar
\end{displaymath}

従って $t$ 秒後に電子が左にいる確率と、右にいる確率は、上の式の 絶対値の二乗より得られる。


\begin{displaymath}%e4
P(\psi(t)\rightarrow 左)=\cos^2\frac{At}\hbar,\qquad
P(\psi(t)\rightarrow 右)=\sin^2\frac{At}\hbar
\end{displaymath} (4.4)

この結果を図4.2に示すが、電子が左にいる確率はだんだん 下がっていき、$t=\pi\hbar/2A$ では完全に $\left\vert右\right\rangle $ の 状態になってしまう。 さらに時間がたつと、今後は右にいる確率が下がっていき、やがて $\left\vert左\right\rangle $ の状態に戻る。 というように、電子が振動的な運動をすることがわかる。 振動的というと、電子は、左の位置から徐々に右の位置へ移動していくように、 思われるかもしれないが、電子の位置を調べると、常に左の 原子核付近にいるか、右の原子核付近にいるかのいずれかの状態しか 発見されない。 ただその発見する確率が時間と共に振動的に変化するのである。

図 4.2: $t=0$ で水素分子イオンの片側に局在していた電子は 時間とともに両原子核を振動的に渡り歩く
\includegraphics{fig/bi.oscillate.eps}




問題4..3 $t=t_0$ の時刻に電子の位置を調べたところ、左にいることがわかった。 その後 $t=t_1$ で電子を右に発見する確率はどれほどか。

答え $t=t_0$ で電子は $\left\vert左\right\rangle $ の状態をある確率でとる。 しかしその時点で電子が左にいることを確認してしまうと、電子の状態は 100% $\left\vert左\right\rangle $ となる。 従って、その後の確率の変化は $t=t_0$ を原点として式4.4の 形で変化する。


\begin{displaymath}
P=\sin^2\frac{A(t_1-t_0)}\hbar
\end{displaymath}


問題4..4 $t=0$ で電子が右にいることが確定していた場合、その後の $\left\vert左\right\rangle $ または $\left\vert右\right\rangle $ の状態をとる確率振幅と確率を求めよ。

答え          $\displaystyle P(左)=\sin^2\frac{At}\hbar,\quad P=\cos^2
\frac{At}\hbar $




ここに述べた系が常に振動的な答となるかというと、必ずしもそうではない。 例えば初期状態として $\left\vert左\right\rangle $ $\left\vert右\right\rangle $ の状態が 50% ずつ 混ざり合った状態を考えて見よう。


\begin{displaymath}%e5
\left\vert\psi(t)\right\rangle =\frac1{\sqrt2}\left\vert...
...t2}\left\vert右\right\rangle
(=\left\vert E_h\right\rangle )
\end{displaymath} (4.5)

4.3より次式が得られる。


\begin{displaymath}%e6
\left.
\begin{array}{c}
\displaystyle\left\langle\left...
...frac1{\sqrt2}\exp\frac{-iE_ht}\hbar
\end{array} \ \right\}
\end{displaymath} (4.6)

これらの式より直ちに、次の結果が得られる。


\begin{displaymath}%e7
P(\psi(t)\rightarrow 左)=\frac12,\qquad
P(\psi(t)\rightarrow 右)=\frac12
\end{displaymath} (4.7)

電子を左に発見する確率も右に発見する確率も、共に時間に依らず 50% に 保たれる。 式4.6を見ると $\left\vert\psi(t)\right\rangle $ の状態は、角周波数 $E_h/\hbar$、すなわち、エネルギー $E_h$ の状態であることがわかる。 この状態のエネルギーを測定すると、常に $E_h$ となるのであるから、 $\left\vert\psi(t)\right\rangle =\left\vert E_h\right\rangle $ と書いてもよさそうである。 事実、式4.6の上式に、左より $\left\vert左\right\rangle $ を掛け、 下式に、左より $\left\vert右\right\rangle $ を掛けて加え合わせると、次式となる。


\begin{displaymath}
\left\vert\psi(t)\right\rangle =\frac1{\sqrt2}(\left\vert左...
...ht\rangle +\left\vert右\right\rangle )
\exp\frac{-iE_ht}\hbar
\end{displaymath}

$\frac1{\sqrt2}(\left\vert左\right\rangle +\left\vert右\right\rangle )=\left\vert E_h\right\rangle $ であるから (次の 問を見よ)、次式が誘導でき、予想と似た結果が得られる。


\begin{displaymath}%e8
\left\vert\psi(t)\right\rangle =\left\vert E_h\right\rangle \exp\frac{-iE_ht}\hbar
\end{displaymath} (4.8)

しかし絶対値 1 のスカラー倍、 $\exp(-iE_ht/\hbar)$ 倍は、 観測するとまったく無視できることから、 $\left\vert\psi(t)\right\rangle $ は、ずっと $E_h$ の状態にあると言える。




問題4..5 固有状態 $\left\vert E_h\right\rangle $ $\left\vert E_l\right\rangle $ を一組の基底状態 $\left\vert左\right\rangle $ $\left\vert右\right\rangle $ で表してみよ。

答え          $\displaystyle\left\vert E_h\right\rangle =\frac1{\sqrt2}(\left\vert左\right\ran...
...\rangle =\frac1{\sqrt2}(\left\vert左\right\rangle - \left\vert右\right\rangle )$




同様に $t=0$ $\left\vert\psi(0)\right\rangle =\left\vert E_l\right\rangle $ とすると次式が得られる。


\begin{displaymath}%e9
\left\vert\psi(t)\right\rangle =\left\vert E_l\right\rangle \exp\frac{-iE_lt}\hbar
\end{displaymath} (4.9)

この場合も式4.7と同じく電子を左に発見する確率と右に 発見する確率は共に時間によらず一定で 50% ずつとなる。




問題4..6 4.9を導け。




このように、$t=0$ $\left\vert E_h\right\rangle $ (または $\left\vert E_l\right\rangle $) の場合は、 その後ずっと $\left\vert E_h\right\rangle $ (または $\left\vert E_l\right\rangle $) の状態にあり、 位相だけが観測されるエネルギー $E_h$ (または $E_l$) に対応して、 一定の割合で変化していく。 このことから観測されるエネルギーは常に $E_h$ (または $E_l$) であり、 特にエネルギー確定状態(energy-defined state)と呼ばれる。 また、 $P(\psi(t)\rightarrow 左)$ $P(\psi(t)\rightarrow 右)$ などが、時間とともに全然変化しないことから、定常状態ともよばれる。

エネルギー固有状態 $\left\vert E_h\right\rangle $ $\left\vert E_l\right\rangle $ は、他にも面白い性質を 持っている。 式4.3の一般解の $i$$j$ に直してから、両辺の 左辺より $\left\langle E_i\right\vert$ を掛けてみよう。 $\left\langle\left.E_i\right\vert E_j\right\rangle =\delta_{ij}$ を利用すると、次式が得られる。


\begin{displaymath}%e10
\left\langle\left.E_i\right\vert\psi(t)\right\rangle =\...
..._it}\hbar\left\langle\left.E_i\right\vert\psi(0)\right\rangle
\end{displaymath} (4.10)

これから、$\psi(t)$ がエネルギー $E_i$ をとる確率を求める。


\begin{displaymath}%e11
P(\psi(t)\rightarrow E_i)=P(\psi(0)\rightarrow E_i)
\end{displaymath} (4.11)

つまり、$t=0$ で勝手な状態にある系が、あるエネルギー $E_i$ をとる 確率は、時間が経過しても変化しないことがわかる。

以上で、水素分子イオンに関する量子力学的計算を終了するが、本節で得られた 計算結果が、水素分子イオンを安定に存在させるのに、いかに役立っているかを 示したい。 $\left\vert\psi(0)\right\rangle =\left\vert E_l\right\rangle $ を初期状態とする状態 $\left\vert\psi(t)\right\rangle $ は、式4.9のように変化し、そのエネルギーは $E_l$ と 一定である。 $E_l$ は、$E_0-A$ であるが、これが、水素原子の間隔 $a$ に対して、 どのように変化するかを考えてみよう。 まず、$E_0$ であるが、これは電子が遷移を起こさないとしたときの、 水素分子イオン全体のエネルギーであり、これには、原子核の持つエネルギー、 電子自身のエネルギー、原子核と電子の間のクーロンエネルギー、原子核同志の エネルギー、といろいろなエネルギーが寄与してくる。 このうちで、間隔 $a$ とともに大きく変わるものは、電子と総合した 原子核と、裸の原子核の間の、クーロンエネルギーである。 電子は、ボーアの原子半径程度ひろがって、原子核の正電荷を 遮断しているので、間隔 $a$ が大きい時のクーロンエネルギーは、殆ど 無視できる。 しかし、原子間隔が原子半径位に近寄ってくると、クーロンエネルギーは急激に 増加する。 この様子を、図4.3 の一点鎖線で示す。 一方の跳び移り確率振幅 $A$ も、原子間隔 $a$ とともに、急速に減少する 関数であるが、その程度が、図の破線に示すようにやや緩いことが 知られている。 このため、$E_0-A$ を描いてみると、適当な間隔で最小値を 持つことがわかる。 このとき、 $\left\vert E_l\right\rangle $ の状態は、最もエネルギーが低くなるため、 水素分子イオンは、この間隔で安定に存在することとなる。 一方、 $\left\vert E_h\right\rangle $ の状態のエネルギーは $E_0+A$ であり、これは $a$ に対し単調に減少する関数となる。 従って、 $\left\vert E_h\right\rangle $ の状態は不安定であり、やがては、 $a\rightarrow
\infty$ となり、イオンが分散してしまうこととなる。

図 4.3: 水素分子イオンのエネルギー
\includegraphics{fig/bi.H-ion-energy.eps}


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Yoichi OKABE 平成19年6月30日